山田五十鈴さんを偲ぶ
時に思い起こしては、影ながら長寿を祝い且つ祈っていた山田五十鈴さんが天に召された。
長きに亘り、田中絹代さんと日本映画界の女優陣を牽引する両輪のような存在だった。このお二人が共演された映画がある。「おぼろ駕篭」(1951年)。作品そのものは特記すべきほどではないが、二人の大女優の顔合わせだったので印象に残っている。
通り一遍の書き出しでは平凡なので、突飛な出だしになったが、無論思い起こすのは、名作の中で名演された山田五十鈴さんである。以下思い起こすままに少し述べて、日本映画界が生んだ名優の功績を偲びたい。
古い方である。先ず、1936年に出演された溝口健二監督の2作品を思い出す。彼女まだうら若き19才の時であった。
一つは、「浪華悲歌」。
電話交換手村井アヤ子に扮して居られた。「私は病気や。不良少女という立派な病気や」。迫真の台詞でピリリと締めた力演だった。
二つ目は、「祇園の姉妹」
昭和初期という時代、「いちげん様おことわり」が息づく京都花柳界を背景に、芸妓おもちゃに扮しておられた。
男性客に対する反抗スピリットが息づいて、傷ついた古い画像や歪んだ音声を忘れさせるほどだった。
戦時下1943年に作られた成瀬巳喜男作品「歌行燈」。「あんなんでんねん」。関西弁が活き活きと輝いていた。
戦後も大活躍された。
「猫と庄造と二人のをんな」(1956年豊田四郎作品)。品子役は、文句なしに堂に入ったものだった。
翌1957年、2本の黒澤明作品と、1本の小津安二郎作品での演技は絶頂期を思わせた。
「どん底」で、大家の女房に扮されたお杉もさることながら、「蜘蛛巣城」で演じられた悪妻、淺茅。「三木義明が事実を漏らしたら・・」夫を操る巧さは鳥肌ものだった。
「東京暮色」では、背中で演技して居られて流石だった。
心よりご冥福をお祈り致します。
長きに亘り、田中絹代さんと日本映画界の女優陣を牽引する両輪のような存在だった。このお二人が共演された映画がある。「おぼろ駕篭」(1951年)。作品そのものは特記すべきほどではないが、二人の大女優の顔合わせだったので印象に残っている。
通り一遍の書き出しでは平凡なので、突飛な出だしになったが、無論思い起こすのは、名作の中で名演された山田五十鈴さんである。以下思い起こすままに少し述べて、日本映画界が生んだ名優の功績を偲びたい。
古い方である。先ず、1936年に出演された溝口健二監督の2作品を思い出す。彼女まだうら若き19才の時であった。
一つは、「浪華悲歌」。
電話交換手村井アヤ子に扮して居られた。「私は病気や。不良少女という立派な病気や」。迫真の台詞でピリリと締めた力演だった。
二つ目は、「祇園の姉妹」
昭和初期という時代、「いちげん様おことわり」が息づく京都花柳界を背景に、芸妓おもちゃに扮しておられた。
男性客に対する反抗スピリットが息づいて、傷ついた古い画像や歪んだ音声を忘れさせるほどだった。
戦時下1943年に作られた成瀬巳喜男作品「歌行燈」。「あんなんでんねん」。関西弁が活き活きと輝いていた。
戦後も大活躍された。
「猫と庄造と二人のをんな」(1956年豊田四郎作品)。品子役は、文句なしに堂に入ったものだった。
翌1957年、2本の黒澤明作品と、1本の小津安二郎作品での演技は絶頂期を思わせた。
「どん底」で、大家の女房に扮されたお杉もさることながら、「蜘蛛巣城」で演じられた悪妻、淺茅。「三木義明が事実を漏らしたら・・」夫を操る巧さは鳥肌ものだった。
「東京暮色」では、背中で演技して居られて流石だった。
心よりご冥福をお祈り致します。
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