1900年
'82公開(伊/仏/西独)[監督]ベルナルド・ベルトルッチ[出演]ロバート・デ・ニーロ。ジェラール・ドパルデュー。ドナルド・サザーランド(他)

過去に観た最長時間の映画は、「ファニーとアレクサンデル」の5時間11分。それを5分上回る「1900年」だった。
2作品に共通するのは、鑑賞前に恐れていた“飽き”が無かった事。前者も優れた作品だったが、今回もそれに優るとも劣らなかった。
題意の1900年から始まるこの映画。対照的な二人の男の生涯を中心に据えて、当時の北イタリアに生きた人々を描き切る。
小作人の子、オルモと、富豪ベルリンギエリ家の子、アルフレッド。
全く対照的な環境に育ちながら、仲の良かった二人の不思議な友情が全編を貫き、この胸を揺すった。
列車の来る線路に仰向けに伏すオルモ少年の度胸に驚嘆するアルフレッド少年だった。
が、ドイツのヒトラーと手を結んだムッソリーニのファシズムは、ソビエト社会主義に傾注する農作人たちを弾圧して行く。その先鋒となる富豪と、小作人の対立が全編を覆って居て、実に凄まじい限りである。
それぞれの立場が違うために、愛と恩讐の狭間に生きねばならぬオルモと、アルフレッドの生き様が哀しくも生々しい。
二人の祖父や父の時代に始まった大河物語は、二人が逞しい青年に育った頃で第1部を終え、3分間のインターミッションに入る。
第2部は、二人の間に、ファシストの指導者、アッティラが介入。波瀾万丈の出来事が続発する。描写は一切避けるが、それ等を通じてこの映画から、人間としての生き方について、何かを学んだように思う。
不幸な小作人が、幸せな地主を憎む気持ちは痛いほど理解出来た。世の中は、公正なギブ・アンド・テイクでこそ成り立つ。具体的な言葉が出てこないのが残念だが、人生は勉強なり。とも。
列車の来る線路に、オルモ少年が仰向けに伏して半世紀。今度はアルフレッド老人が、、。嗚呼。絶句。
これは堂々たる秀作大河物語である。
追伸。
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」の鑑賞記で、「1900年」観賞後に、ベルナルド・ベルトルッチ監督の思想が分かるかもしれない云々と書いた。
その答が分かったような気がする。ベルトルッチ監督は真摯に人間を見詰め、問い直し、その生き様から、人間としての生き方を究めんとする修道者かもしれない。
そんな人間を描くためには、見栄や虚勢は要らない。必要な際には性表現も辞せず。と。
この作品でも、少年時代の自慰行為に始まり、再三描かれる性表現だが、それは興味本位の卑猥感を催す三流映画とは、飽くまで一線を画する。
事実、あの二人の少年のシーンには、私自身の少年時代のそれを重ね合わせていたもの。
ベルトルッチ監督が主張する如く、それは手段であって、目的ではない。この映画の偉大なテーマの前には、そんなものは一塊の塵埃に過ぎないのだ。

過去に観た最長時間の映画は、「ファニーとアレクサンデル」の5時間11分。それを5分上回る「1900年」だった。
2作品に共通するのは、鑑賞前に恐れていた“飽き”が無かった事。前者も優れた作品だったが、今回もそれに優るとも劣らなかった。
題意の1900年から始まるこの映画。対照的な二人の男の生涯を中心に据えて、当時の北イタリアに生きた人々を描き切る。
小作人の子、オルモと、富豪ベルリンギエリ家の子、アルフレッド。
全く対照的な環境に育ちながら、仲の良かった二人の不思議な友情が全編を貫き、この胸を揺すった。
列車の来る線路に仰向けに伏すオルモ少年の度胸に驚嘆するアルフレッド少年だった。
が、ドイツのヒトラーと手を結んだムッソリーニのファシズムは、ソビエト社会主義に傾注する農作人たちを弾圧して行く。その先鋒となる富豪と、小作人の対立が全編を覆って居て、実に凄まじい限りである。
それぞれの立場が違うために、愛と恩讐の狭間に生きねばならぬオルモと、アルフレッドの生き様が哀しくも生々しい。
二人の祖父や父の時代に始まった大河物語は、二人が逞しい青年に育った頃で第1部を終え、3分間のインターミッションに入る。
第2部は、二人の間に、ファシストの指導者、アッティラが介入。波瀾万丈の出来事が続発する。描写は一切避けるが、それ等を通じてこの映画から、人間としての生き方について、何かを学んだように思う。
不幸な小作人が、幸せな地主を憎む気持ちは痛いほど理解出来た。世の中は、公正なギブ・アンド・テイクでこそ成り立つ。具体的な言葉が出てこないのが残念だが、人生は勉強なり。とも。
列車の来る線路に、オルモ少年が仰向けに伏して半世紀。今度はアルフレッド老人が、、。嗚呼。絶句。
これは堂々たる秀作大河物語である。
追伸。
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」の鑑賞記で、「1900年」観賞後に、ベルナルド・ベルトルッチ監督の思想が分かるかもしれない云々と書いた。
その答が分かったような気がする。ベルトルッチ監督は真摯に人間を見詰め、問い直し、その生き様から、人間としての生き方を究めんとする修道者かもしれない。
そんな人間を描くためには、見栄や虚勢は要らない。必要な際には性表現も辞せず。と。
この作品でも、少年時代の自慰行為に始まり、再三描かれる性表現だが、それは興味本位の卑猥感を催す三流映画とは、飽くまで一線を画する。
事実、あの二人の少年のシーンには、私自身の少年時代のそれを重ね合わせていたもの。
ベルトルッチ監督が主張する如く、それは手段であって、目的ではない。この映画の偉大なテーマの前には、そんなものは一塊の塵埃に過ぎないのだ。
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