マクベス
1973年公開(英)[監督]ロマン・ポランスキー[出演]ジョン・フィンチ。フランセスカ・アニス。マーティン・ショー(他)

シェイクスピア劇の映画化は数多い。「ロミオとジュリエット」など何度映画化されたことか。四大悲劇の中でも、「ハムレット」と「オセロ」は何度となく映画化されている。が、何故か、「マクベス」と「リア王」は少ない。
「マクベス」については、「蜘蛛巣城」を含めても私は2本しか観ていない。なお、「リア王」は未見である。もしかしたら四大悲劇の前2本は映画向きで、後の2本はその反対なのだろうか?。
映画向きと言って思いつくことがある。折角有名なシェイクスピアの芝居を映画化するのだ。その意義性がなくては値打ちも下がるだろう。
そういう観点からは、1949年のローレンス・オリヴィエ作品「ハムレット」が忘れ難い。芝居の第3幕,第1景。ハムレットが広間でオフィリアに会う前に独白する彼の有名な台詞「To be or not to be…」。
この映画ではオフィリアに会った後、荒海見下ろす城壁の見張り台で独白していた。暗雲立ち込める見張り台。それを重要な地位に置き、城内の背景も黒一色。それは映画としてのハムレットを主張しているかのように見えた。
そういう観点から眺めてみるに、この「マクベス」(以下、前者と言う)は、その残酷性に意義を見出す。それは、同じマクベスが背景の黒澤明作品「蜘蛛巣城」(以下、後者と言う)の様式美と好対照だ。
先ず冒頭附近からして、前者の3人の魔女が醸し出す嫌らしい様な雰囲気は、後者の老婆から漂う幽玄さに比べ、何と感性の差異を感じることよ。
以降、前者のダンカン謀殺から、マクベスのあの最期まで続く残虐感は、後者の悲愴美とも称すべき雰囲気とは180度異なる。どちらが良い悪いと言うに非ず。映画化の意義は双方に感じる。
些細なところでは、マクベス夫人の執念性は、前者が次第に薄れ気味に感じられたが、後者で演じた山田五十鈴さんは正に神技だった。
なお、前者は、此の映画の2~3年前に発生したロマン・ポランスキー監督夫人のあの惨劇が、多分に影響していることと推察したい。

シェイクスピア劇の映画化は数多い。「ロミオとジュリエット」など何度映画化されたことか。四大悲劇の中でも、「ハムレット」と「オセロ」は何度となく映画化されている。が、何故か、「マクベス」と「リア王」は少ない。
「マクベス」については、「蜘蛛巣城」を含めても私は2本しか観ていない。なお、「リア王」は未見である。もしかしたら四大悲劇の前2本は映画向きで、後の2本はその反対なのだろうか?。
映画向きと言って思いつくことがある。折角有名なシェイクスピアの芝居を映画化するのだ。その意義性がなくては値打ちも下がるだろう。
そういう観点からは、1949年のローレンス・オリヴィエ作品「ハムレット」が忘れ難い。芝居の第3幕,第1景。ハムレットが広間でオフィリアに会う前に独白する彼の有名な台詞「To be or not to be…」。
この映画ではオフィリアに会った後、荒海見下ろす城壁の見張り台で独白していた。暗雲立ち込める見張り台。それを重要な地位に置き、城内の背景も黒一色。それは映画としてのハムレットを主張しているかのように見えた。
そういう観点から眺めてみるに、この「マクベス」(以下、前者と言う)は、その残酷性に意義を見出す。それは、同じマクベスが背景の黒澤明作品「蜘蛛巣城」(以下、後者と言う)の様式美と好対照だ。
先ず冒頭附近からして、前者の3人の魔女が醸し出す嫌らしい様な雰囲気は、後者の老婆から漂う幽玄さに比べ、何と感性の差異を感じることよ。
以降、前者のダンカン謀殺から、マクベスのあの最期まで続く残虐感は、後者の悲愴美とも称すべき雰囲気とは180度異なる。どちらが良い悪いと言うに非ず。映画化の意義は双方に感じる。
些細なところでは、マクベス夫人の執念性は、前者が次第に薄れ気味に感じられたが、後者で演じた山田五十鈴さんは正に神技だった。
なお、前者は、此の映画の2~3年前に発生したロマン・ポランスキー監督夫人のあの惨劇が、多分に影響していることと推察したい。
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