J・エドガー (2011年.公開='12年.米)

彼の有名なリンドバーグ事件は私が生まれた年に起こった。此の出来事が、「新しい法律を作れ!」という気運を一気に加速させた事を、映画は克明に伝えている。
それは納得性と快テンポの中に、当該事件の前年の映画「民衆の敵」まで劇中劇として登場させていて実に見応えがある。
斯くして颯爽と出現するエドガーではあるが、クライドーに「君が必要。ナンバー2になってくれ」と依頼するところなど、その周到な準備工作にも一寸した感歎。「意見が合う時は良い。無い時はランチを一緒に」なんて洒落ている。
斯くして、アメリカ映画にもよく登場するFBIを築き上げたエドガー。初代長官として実に50年間もその座にしがみついていた事実に驚嘆。その間、科学的捜査方法を取り入れたりする中で、権威主義や妄信的な反政治勢力主義や人種差別主義などを私は垣間見る。盗聴などの違法な手段を用いて相手の弱みを握り闘争手段に用いるところ等見応え充分。思わず昨今現実に発生した類似事件まで連想してしまった。
その傍らで描く私的描写がまた丁寧。母の死まで、彼女とダンスするマザコンぶりや、クライドーとの同性愛等々。細かいところでは、ドロシー・ラムーアや、キング牧師のノーベル平和賞や、ニクソン大統領との確執等、実在人物も登場する2時間17分は、老いの悲哀を漂わせつつ終わりを告げる。
映画的には紛れもない佳作と思う。しかし何処か満足感に欠ける。何故だろうと考えてみた。悪人を描いた映画であっても、そこに何らかの共感し得る真実。例えば反権力が含まれているものであれば、それなりの観かたが出来る。例えば「ゴッドファーザー」。名画の一つとさえ思う。その由縁は悪を描き乍らも、今言ったような共感出来る部分があるから。
「J・エドガー」。悪をやっつける善を描きながらも、今ひとつ共感出来ないのだ。それは、ドン・ヴィトー・コルレオーネと、ジョン・エドガー・フーヴァーとの、人間的魅力の差なのかもしれない。
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