野菊の如き君なりき

昨年(1954年)、不朽の名作『二十四の瞳』を発表し名声を馳せた木下恵介監督が、今年(1955年)も遂にそれに劣らぬ映画詩を創り上げた。これは、野菊の如き、りんどうの如き、清らかに美しい、胸にひたひたと迫る感動を覚える映画である。
実際、この感動は『二十四の瞳』に決して劣らず、今年(1955年)見た中で、今までの二大作品『夫婦善哉』『生きものの記録』を凌ぐものであった。断然、今年(1955年)のベストワンはこれだ。信州の豊かな旧家の息子、政夫の家に、従兄弟に当たる年上の民子が、か弱い政夫の母親の面倒を見にやって来る。幼なじみの二人も思春期に入っていた。一緒に畑で働く二人の姿を、封建的な村の人々は、冷たい目で見初めていた。
年上の女と年下の男の結婚は許されない土地柄だった。「誰がなんと言おうと僕たちは何も人々にとやかく言われることはしていないよ」何時までも仲良くすることを誓い合う二人だった。二人で綿を摘みに行く時のマンドリンの美しい調べ。民子は道ばたに咲いている野菊を摘みながら「私は野菊が大好き」と言う。「僕も好きだ」二人はその野菊を手に畑に向かう。あくまでも澄み切った秋空の下、遠くに山々を見渡す畑の中で、真っ白な綿を摘む二人のたとえようもない情景。
「民子さんは野菊のような人だ」という政夫の言葉も民子は聞いてか聞かいでか。やがて、中学、そして寄宿舎に入る政夫と別れる悲しさを思い浮かべていたのだ。休憩の時、民子は風にそよぐりんどうを見つけて摘む。「まあ綺麗なりんどうの花。私、りんどうも大変好きになったわ」。そばに歩み寄る政夫に「政夫さんって、りんどうのような人だわ」と洩らす。
若い二人の間に触れ合う清純な魂と魂。何時しか芽生えた切ない初恋の美しさをかくも清らかに表現した映画が他にあろうか。政夫は「僕が行ってから見てくれ」と手紙を渡す。民子は蔭に走り寄り開ける。「僕はここへ来たが、民子さんのことばかり思えてきて何も手につかない。こんなことではいかん。勉強しようと----」手紙がみるみる濡れていく。折角帰ってきた楽しみな冬休みも、いつも意地悪な兄嫁が母へ告げ口して、民子を実家に帰していた。
空しく学校に戻った頃、民子は無理矢理に決められた男の許に嫁いでしまう。角隠しの花嫁姿で人力車に乗り、きりっと上を向く彼女の目には、真珠のような涙が溢れていた。深く印象に残るシーンである。民子に理解あるただ一人の人、祖母の「民子、お嫁さんは下を向いて行くものだよ」の言葉に、そっと頭を項垂れた民子の車は、幾つかの車を後に従えて、寒い月が照らす野道を進んでいく。
主題曲がマンドリンの美しい音色で掻き立てる。詩を絵にしたような風景が醸し出される。何故この風景が詩と直結しているのか、寒月の青い光もあるだろう。しかしもっと大事なもの、「民子の裂かれるが如き胸の想い」が、本当に痛々しく感じ取られるからである。ある日、政夫は授業中にスグカエレハハ」の電報を受け取る。虚弱な母は病床にあったが容体が悪化していることもない。
不審がる政夫に母は「おまえは民子が嫁に行ったの知っていたのかい」と聞く。頷き階下で食事中「民子さんは死んだよ」という電撃的な言葉が兄の口から漏れる。口へ持って行った茶碗をハッと下ろし呆然とする政夫。縁側へ出て「一目ぐらい逢わしてくれたって良さそうなものじゃないか」と号涙する彼に母は「自分が民を殺したのと同じ」と言い詫びる。
所詮は後の祭り。「民子はね、嫁いだ後もお前のことばかり想って居って、先方様でも嫌われての。流産で亡くなったのじゃ、そのときお前のことを一つも口にしなかったじょって、お前のことを諦めとると思ってな、呼ばなかったのじゃ。後で右手にしっかりと握っている紙包みがあるので、そのままにしておくのも何か気がかりじゃから、皆と相談して開けたんじゃ。そしたらのう。
お前が民に宛てた手紙とりんどうの花が入っていたんじゃ」切々と語る祖母の言葉。何という美しくも悲しい場面であろうか。私は溢れてくる熱いものを堪えることはできなかった。【後記】この映画をセンチな古くさい恋愛映画と呼ぶものは呼べ。ここには母もの映画その他通俗恋愛映画に見られる商業的意図は微塵も見あたらぬ。通俗映画では何の感動も受けぬが、この作品の魂の揺さぶりに、大いなる感動を受ける。
封建世界への反抗も鋭く盛られている。故郷へ来た老人が、昔遊んだ川を舟で上り、五十年前を回想する形式で始まるが、回想場面はスクリーンの周囲に卵形の白い枠で囲むという試みを行っている。全編に流れるテーマ音楽が清らかで、最後に卵形の枠が消え五十年後の現在になる。昔の政夫少年、今の政夫老人が民子の墓に野菊を供える。野菊の如き君なりきの字幕が出て終わる。何ともいえぬ清らかな余韻だ。【1955年12月7日尾花座での観賞記。今はホテルに変わっているその玄関脇に「かって尾花座此処にありき」の石碑佇む】