子供たちの王様

尖閣、竹島両事件の衝撃は、私をして中韓映画鑑賞を中座せしめていた。久し振りに鑑賞した中国映画は私が訪中した9年後に撮られていた。
それは往事の様相を偲ばせ余り無い。文革時の余震は感じた。だが部屋を閉めて外出しようとする私に人民服の彼は言った。「施錠は不要です」。その通りだった。どうして反日に明け暮れる現代の中国に変貌したのだろう?。
往事の都市部しか知らぬ私だが、映画の舞台は田舎。藁葺き屋根の学校。お粗末な黒板。教科書なしの授業。戦中の日本でも見られた質の悪い紙。蝋燭。布切れの黒板消し。
チョークの粉にまみれるやせっぽち教師に、文革時、波乱の人生身を送ったチェン・カイコー監督が重なって見えた。
三度ほど現れる不気味な丘の風景。これは何を意味しているのか?。もし産業発展の副作用、自然破壊への警告とすれば、同じ道を歩んだ我が国を思い慄然とする。
着古したシャツ姿の先生。学校へ行けない子等。230本の竹で改築する学校。蝋燭の明かりで写す辞書。真っ赤な夕焼けの丘が映る。時々現れるナレーションが心を安らげる。
「昔ある山にお寺があった」。「そこの和尚か話をした」。「どんな話?」。
中国という広大な国。古いその歴史。全体主義国家体制。いろいろと思いは馳せた。
教科書を捨てる決心をするやせっぽち先生に喝采。彼は先ず、文を書くことで自己表現する喜びを生徒に教える。
更に、明日の出来事を今日中に作文に出来るかどうかを賭ける。教訓を含ませたその指導方法には思わず唸る。
これらのことが党上層部に伝わる。
来妹は作曲が出来た。彼女の辞書を頂戴した礼に贈った作詞が、学校の愛唱歌となる挿話が感動を呼ぶ。
前任地に戻されるやせっぽち。
伏線となっていた丘の余韻の不気味さよ。