ニーチェの馬
ニーチェとは哲学者の名と知っているだけ。こんな私にとっては当然難解な映画だった。その題意すら解らない。時代背景も不明。その服装から割合古い時代かもしれない。それとも架空の時代か?。
朧気ながら分かったのは、この世が終末する直前の6日間を描いているということ。
従って極めて暗い雰囲気に包まれている。モノクロ画調がそれを倍増する。もっともこの作品がカラーであれば創る意味がないだろうが。

更には、地味なストーリーが拍車を掛ける。
登場人物は(殆ど)二人だけというのがその要因。
加うるに人間ではないが馬が一頭居るけど。
ただそれだけの背景で、延々2時間半強を飽きさせぬ磁力には、一種の風格を感じるが。
そこに写し出されるのは、そんな二人が、これといった会話もなく、変化に乏しい日常生活を繰り返す6日間である。
そのように描写内容は相当シンプル。故に以下はネタバレを意に介せず書き留めて置きたい。
一日目。
荒涼たる原野を吹き荒ぶ寒風。終始舞い上がる木の葉。女の長い髪が横殴りの風に千切れそうなのが強印象。それはこの日だけではない。それが何とも言えぬ不協和音を奏でる。不気味さを生み出しているこの素晴らしい効果!。
老いた馬を曳きながら男が帰宅する。よく咳払いする。帰宅と言っても自然の石を積んだ壁。床は地肌丸見え。まるで石器時代のような住居。傍に馬と荷車を格納するお粗末な小屋がある。
男を出迎える女が居た。
馬と荷車を小屋に格納。
住居に入り、男の着替えを手伝う。
どうやら男の右手は自由が利かないようだ。
このような男女を初めは夫婦かと思った。
全く台詞がないから。
「食事よ」これが初めての台詞だった。
幾つ目かの台詞で父と娘だと分かる。
あまりにも少なくて、且つ短い台詞が、これまた地味な効果を生み出すから摩訶不思議でもある。
茹でた馬鈴薯を1個食べるのみ。それも手掴みで。
これが毎日続く。
荒れ地は馬鈴薯しか育たぬからか。
「もう寝ろ」。
ランプを消す。
毎日外を眺める窓の傍にあるペチカ。
その火だけがニョロニョロと燃えている。
この映画は他に3カ国の名も見えるが、実質はハンガリー映画。什器備品類などからそれが分かるような気がする。でも舞台背景も架空の場所かもしれぬなぁ。
二日目。
父薪割り。娘洗濯。
突然他人が登場。「バーリンカ分けてくれ」と男が来る。どうやら焼酎の名らしい。
その男が途端に口を開く。それは「人間が一切を駄目にした。堕落させたのだ」に始まり「いい加減にしろ。くだらん」と言われるまで延々と続く。
もしかしたらニーチェの言葉と関係あるのだろうか?。私には分からない。
この映画で私が最も難解な部分でもある。
三日目。
馬の世話。また芋の食事。突然二頭立ての馬車に乗った7~8人の男が登場。
井戸の水を飲んだ礼に聖書を娘に差し出す。
彼等が去った後、熱心に読む娘。
宗教の匂いもして来る。
四日目。
突然、毎日汲みに行っていた井戸が枯れる。
馬は飼い葉を食べず。水さえ飲まず。
天変地異が起きたのが分かる。この映画のテーマの序章と思う。
他の土地を求める決心をする父。支度する娘。鞄の中にチラッと亡母の写真が見えたように気がしたのだけれど?。
人が馬を引っ張る。見事な1本の大木。雪。仕方なく戻ってくる一家。
五日目。
例によって父の着替えを手伝う娘が居た。
もう動かぬ馬の手綱を外す。「牛の鈴音」を思い出した。同じ感動が湧く。
窓の外。毎日眺めてきた見事な-本の大木。雪で見えなくなる。
その夜ランプ灯らず。
六日目。
食事を娘食べず。生の芋。水と火無し。
終末が近づいてきたのだ。
この映画のテーマは、この世の終わりではないだろうか。
そして思った。これは人生の終末にも通じると。
それは万人に何時か必ず訪れるのだと。
朧気ながら分かったのは、この世が終末する直前の6日間を描いているということ。
従って極めて暗い雰囲気に包まれている。モノクロ画調がそれを倍増する。もっともこの作品がカラーであれば創る意味がないだろうが。

更には、地味なストーリーが拍車を掛ける。
登場人物は(殆ど)二人だけというのがその要因。
加うるに人間ではないが馬が一頭居るけど。
ただそれだけの背景で、延々2時間半強を飽きさせぬ磁力には、一種の風格を感じるが。
そこに写し出されるのは、そんな二人が、これといった会話もなく、変化に乏しい日常生活を繰り返す6日間である。
そのように描写内容は相当シンプル。故に以下はネタバレを意に介せず書き留めて置きたい。
一日目。
荒涼たる原野を吹き荒ぶ寒風。終始舞い上がる木の葉。女の長い髪が横殴りの風に千切れそうなのが強印象。それはこの日だけではない。それが何とも言えぬ不協和音を奏でる。不気味さを生み出しているこの素晴らしい効果!。
老いた馬を曳きながら男が帰宅する。よく咳払いする。帰宅と言っても自然の石を積んだ壁。床は地肌丸見え。まるで石器時代のような住居。傍に馬と荷車を格納するお粗末な小屋がある。

馬と荷車を小屋に格納。
住居に入り、男の着替えを手伝う。
どうやら男の右手は自由が利かないようだ。
このような男女を初めは夫婦かと思った。
全く台詞がないから。

幾つ目かの台詞で父と娘だと分かる。
あまりにも少なくて、且つ短い台詞が、これまた地味な効果を生み出すから摩訶不思議でもある。
茹でた馬鈴薯を1個食べるのみ。それも手掴みで。
これが毎日続く。
荒れ地は馬鈴薯しか育たぬからか。

ランプを消す。
毎日外を眺める窓の傍にあるペチカ。
その火だけがニョロニョロと燃えている。
この映画は他に3カ国の名も見えるが、実質はハンガリー映画。什器備品類などからそれが分かるような気がする。でも舞台背景も架空の場所かもしれぬなぁ。
二日目。

突然他人が登場。「バーリンカ分けてくれ」と男が来る。どうやら焼酎の名らしい。
その男が途端に口を開く。それは「人間が一切を駄目にした。堕落させたのだ」に始まり「いい加減にしろ。くだらん」と言われるまで延々と続く。
もしかしたらニーチェの言葉と関係あるのだろうか?。私には分からない。
この映画で私が最も難解な部分でもある。
三日目。
馬の世話。また芋の食事。突然二頭立ての馬車に乗った7~8人の男が登場。
井戸の水を飲んだ礼に聖書を娘に差し出す。
彼等が去った後、熱心に読む娘。
宗教の匂いもして来る。
四日目。

馬は飼い葉を食べず。水さえ飲まず。
天変地異が起きたのが分かる。この映画のテーマの序章と思う。
他の土地を求める決心をする父。支度する娘。鞄の中にチラッと亡母の写真が見えたように気がしたのだけれど?。
人が馬を引っ張る。見事な1本の大木。雪。仕方なく戻ってくる一家。
五日目。
例によって父の着替えを手伝う娘が居た。
もう動かぬ馬の手綱を外す。「牛の鈴音」を思い出した。同じ感動が湧く。
窓の外。毎日眺めてきた見事な-本の大木。雪で見えなくなる。
その夜ランプ灯らず。
六日目。
食事を娘食べず。生の芋。水と火無し。
終末が近づいてきたのだ。
この映画のテーマは、この世の終わりではないだろうか。
そして思った。これは人生の終末にも通じると。
それは万人に何時か必ず訪れるのだと。