真昼の決闘

この映画の見所はいくつかある。保安官も恐怖心を持つ一人の人間として描いていること。進行する時計の針に連動してリアルタイムに物語が進行するその緊迫感。決闘シーンを最後の数分間に凝縮したことから来る盛り上がり。要所に流れる印象深い主題歌などだ。タイトルバックに「ハイヌーン」が心地よい打楽器のリズムを刻み、右手に高く聳える大木の基に馬上の悪漢が集まってくる。
キャスティングが消え、鐘が鳴る教会の傍で悪漢を見送る老女がこちらを振り向き胸に十字を切る。いつもの事ながら良い映画はトップカットからして堪らない。横にエミーを乗せ馬車で町を出ようとしていたケインが引き返し、助勢を求め入った酒場の時計は11時20分を指していた。
悪漢たちは12時丁度に到着する汽車でやって来るというのに。町の人々が集まっている教会でも誰も助勢の姿勢を見せては呉れぬ。殺し合い否定の牧師、。クェーカー教徒のエミーも「いくら正しくても殺し合いは駄目」。町長(トーマス・ミッチェル)には「町を去れ」と言われ、此処でも加勢を拒否された元保安官宅の時計は11時43分を指している。
居留守を使う者、逃げ去る者、希に加勢をしようと思う者も「5年前は加勢が6人も居たのに今はたった1人では」と後ろ込み。とぼとぼと町を一人で彷徨い歩くケインが手を差し伸べようとした子供たちさえさっと散らばって逃げ去る。見事に浮き彫りされた孤独感と緊縛感は流石。
ケインのかっての恋人ヘレン(ケティ・フラド)を奪った保安官補ハーベイ(ロイド・ブリッジス)とは、彼の「怖いだろ」の言葉から殴り合いになって、辿り着いた床屋の時計は12時10分前。その時だけが刻々と迫ってくる。悪漢のやって来る線路が平面のスクリーンに、その幅の先が細くなっている遠近感を醸しながらクローズアップされる。
因みにこのショットはハイヌーンの旋律と共に、この後も三度ほど現れるがなかなか効果がある。只一人助勢するという14歳の少年を追い返したときは早や12時2分前。
線路/酒場/町の風景/線路/悪党/町の人々/エミーの大写し/1分前を指す時計/振り子の大写し/再び悪党の顔/12時を指す時計/手紙を書き終えるケイン/汽笛の音/手紙に差出人のサインをするケイン/三度線路の大写し/-
-リアルタイムで小刻みに現れるショットが醸し出すサスペンスは見事の一語。ケインり視線から眺めた「馬車で町を去るエミーとヘレンの姿」が、今度は彼女ら側から眺めた「次第に小さくなるケインの姿」に変わるシーンや、人っ子一人姿を見せぬ町を歩き始めるケインの影法師など、フロイド・クロスビーの撮影も好調。西部劇は決闘シーンがないと詰まらない。
最初の轟音を聞き思わず馬車から飛び降りたエミーが見た死体は敵だった。まだ3人。近くの厩に隠れたケインは進入してきた2人目を倒す。残る2人が厩の藁に火を放つ。綱を解き放たれて嘶く一頭の馬に飛び乗ったケインの肩に弾が当たる。弾を詰め替えていた3人目の悪党が倒れた。なんと、エミーが背後の窓から打ったのだ。気づいたミラーが彼女を人質にケインに詰寄る。
怯まずエミーが一撃を加えた隙に放ったケインの弾がミラーを仕留めた。どっと押し寄せてくる町の人々を尻目に、ケインとエミーの馬車は町を去っていく。胸の空くようなハイヌーンの音楽をバックにして。この作品でアカデミー主演男優賞をかくとくしたゲーリー・クーパーニケチをつける気は毛頭無いけど、当時51歳の彼と24歳のグレース・ケリーの結婚だけは、彼の顔の皺が少々気になった。ジョン・W・カニンガムの雑誌小説「ブリキの星章」を、フレッド・ジンネマンは西部劇の優等生に仕立て上げた。
やがて1970年には「明日に向かって撃て」等のニュー・ウエスタン時代を迎えることになるが、自分にとっては青春時代の扉を開いてくれたこの映画は、「シェーン」と双璧を成す永遠のベスト西部劇である。1952年アメリカ映画。